Five seasons  -5ページ目

愛という名のもとに

愛されたい の検索結果 約 75,500 件 

愛したい の検索結果 約 59,700 



相思相愛には程遠いのでしょう。

みな愛されたいと願うのですから。


「あなたを愛してます。」そう言葉にする前に、

「わたしを愛してください。」そう願うのでしょう。


愛したい対象は、特定の異性でしょうか。

友でしょうか、隣人でしょうか、神でしょうか。

愛されたいのは、きっと愛したい対象より狭い対象でしょう。


人は愛という感情に溺れること自体を欲することも可能なの

ですから、きっと自己がある対象を愛するということに

特別な感情を持てるのでしょう。


こんなコトバは、まさに愛をイメージするにはよろしいかと。


「Amare amabam:わたしは愛することを愛していた」


「愛したい」この検索結果が、0件になればと思います。

愛する自由を剥奪する権利は、どなたにもありません。




無機質な支配者君臨

前略

internet 


科学者同士の情報共有から、イツノマニカ世俗にまで及んだ

あなたの影響力には感服いたします。


あなたほどの成長力の高い存在に出会ったことはありません。

そのカリスマ性は、もはや誰にも及ばないでしょう。


情報と名のつくもの、もはやあなたの手中に全て

収まるのでしょうね。

要素に還元すれば、0と1のビット化された無機質なあなたは

どうして、こうも人を引きつけるのでしょう。


これからあなたはどこへ向かっていくのでしょう。

ワタシがちょっとでも立ち止まれば、たちまちあなたは

遠い存在になってしまいそうです。


どこまであなたは、駆け抜けるのでしょう。

躍動する喜びの終わりは、何が待っているのでしょう。

それとも終わりなく駆け抜けるのでしょうか。


あなたのおかげで得たもの、生まれたものは数え切れません。

でも、失ったもの、消えてしまったものもあるのでしょう。


あなたを盲目的に信じてもいいのでしょうか。

見えなくなってしまったものも、きっとあるのでしょう。


世界を変えたのはあなたです。

世界を変えていくのもあなたです。


一度、振り返ってみてください。

あなたが進んだ道の跡には

何が残っているでしょうか。

きっと、踏みつぶされて消えてしまったものもあるはずです。


世はあなたに従属していくでしょう。

否、従属せざるを得ないでしょう。

あなたの進む道が、世の進む道でしょう。


未完全な情報化時代の今こそ、考えてください。

あなたが、どこへ向かうのかと。


あなたには、その価値があるから。



(,,゚Д゚) ガンガレ!





昨日のあなた 今日もあなた?

cap
ね、あなた誰?

ホンモノのあなたじゃないでしょう?

きっとニセモノなんだわ。

きっと誰かと入れ替わったんだわ。


こんなコトを考えてしまう カプグラ症候群


「ワタシはどこ?ワタシは誰?」

じゃない。


「あなたはどこ?あなたは誰?」

ということだろう。


他者のアイデンティティを保てないのだろう。

カプグラ症候群は、奇妙な傷害だと云われるが

考えが及ばないような症状ではないように見える。


今日のあなた、明日のあなた。

同じだって云っても、どっかは違うでしょう。

視覚的に同じなら、それは同一人物?

違和感を感じなければ、それは同一人物?


他者のアイデンティティを同一化し続けること

って、難しいのかしら。


ホンモノのあなたは、近い存在。

ニセモノのあなたは、遠い存在。


その距離感を感じる何かが脳に備わってるんだろうけど。

カプグラ症候群では、その何かに傷害があるのだろうね。


ホンモノのあなたとは違う、違和感のあるあなた。

その瞬間、あなたはあなたでなくなり、ニセモノに置き換えられる。


でも、それは客観的な認識とは独立した感覚なんだろうよ。

客観的な認識では、同一人物のあなた。

変わらぬあなたがいるにもかかわらず、

ホンモノのあなた と ニセモノのあなた が登場してしまう。


きっと客観的な認識とは別の、アイデンティティを規定する

脳の働きがあるんだろうな。


そして、それは限りなく主観的な認識で、

果てしなく不安定な感覚なんじゃない?


あなたがあなたであること。どうしてわたしにわかるの?


(´ー`)チラネーヨ






奇妙奇天烈な運転手

朝、モーニングコールが鳴る。
「RuRuRu.....」

今日は運転手を雇って、千葉のどこかの山河に行こうと決めたんだ。
モーニングコールはその運転手からの電話だった。

「お時間ですよ。東京駅で待ち合わせいたしましょう。」

5分で着替えて、早速東京駅に向かった。

首都高から館山自動車道を通り、君津市についた。
あちらこちらに、「マザー牧場」の看板があった。

私    「マザー牧場って行ったことある?」
運転手 「あるよあるよ!」

私    「あとはどこの牧場行ったことある?」
運転手 「OK牧場も行ったことあるよ」

と、真剣な眼差しで、答えてくれた。
OK牧場って・・・ガッツ石松のネタじゃなかったの??

私    「え OK牧場ってどこにあるの?」
運転手 「日本なのは間違いない。正確な場所は忘れた。」

なるほど、OK牧場は確かに存在するんだ。。恐るべし!!

千葉にはあまり高い山がないので、急流の河も見あたらない。
湖があったが、食事をするには向いてない。

結局、清和県民の森という森に行ってきた。
1人当たり750円でBBQをやるようなスペースを貸してくれた。

Today's Menu
炊き込みご飯
サイコロステーキ
焼きそば
ワカメスープ

おぉ、いつも通りワールドワイドなメニューだった。
σ゚д゚)ボーノ!

春が過ぎて、夏を待つこの季節。
新緑の香りが非常にココチヨイ。

そして、帰り道。
ちょっとした直線の一本道にさしかかったその瞬間。

運転手  「あぁ思い出す。カリフォルニア。」

おい、まさか。荒涼とした赤土の一本道を思い出してる?
そして、まさか。行ったと思い込んでる?
恐る恐る尋ねてみた。

私   「カリフォルニアのご経験は?」
運転手  「あ、いや ない」

やっぱりだ!映画か何かを観て、思い込んでいたんだ!
恐るべし!!

そして、こう続けた!

運転手  「やっぱカリフォルニアの走りはこうでしょ!」

と、アクセルを全開にし、時速140キロで突っ走ってた!


OK牧場から始まったこの旅は、
時速140キロ運転手のおかげで、あっという間に自宅に戻れた。

そして帰宅後。運転手は部屋で横たわっていた。
私  「疲れたから、眠いんだろ?」
運転手  「あぁ、いや ちょっち考え事してた。」

...30分後...
私  「寝たか?」
運転手   「まだ考えてる。結論がでない」

なにをそんなに?

私   「何を考えてるの?」
運転手  「ダウニーの匂いについて」

WHAT? 柔軟剤の匂いを30分も考えてるの?
恐るべし!!と、振り返った瞬間!

ダウニーで洗濯したタオルを顔に巻き付けて・・・
スヤスヤ眠ってやがる・・


美 アリガト!(´▽`)

本棚を見渡す。
一冊取り出す。
広告に関して、こんなくだりがあった。

「日本のポスター界では、美人ポスターと単化ポスターとが、対立的な立場をとっている」

これは1930年代の言葉らしいので、だいぶ古いんだな。

美人ポスター: ○○作の作品を鑑賞するモノである。
その作品を提供してくれた○○百貨店に感謝アリガト!(´▽`)

単化ポスター:○○会社の製品を訴求するモノである。

こんな状況的差異らしい。
なるほどね,とオモッタ。

美人画をある一定の寸法のフレームに収め、それを大衆に向けて発する。
そして、その美に触れた大衆は、こう思う(思わせる)。
「この画を提供してくださった○○会社様 アリガトウ 謝謝」
こんなにも視覚を刺激してくださるなんて、素晴らしい法人様...(´З`)チェッ
って思わせれば、広告主の勝ち~。

これが現代広告以前の広告の基本であろう。


時は流れた。
美人画をのんきに観ている暇などない。
刹那に生きる大衆に向けて、前面に出すべき画は
美人画ではなく、製品そのもの。 
被写体の遷移がここで生まれる ミ・。・ミ オギャー

美人は出演するが、美人が主役なのではない。
むしろ法人が主役に躍り出ているのだ。

広告は、美人画の宣伝ではない。
常に、広告主が登場人物にならなければならぬ。
情報の伝達効率を考えれば、自然発生的に
単化ポスターが不動の地位を占めるのは異論の余地なし。

しかし、時代は繰り返される。
観賞の対象として広告は再び登場している。
街を見渡せば、観賞せよと云わんばかりの
広告が立ち並ぶ。

情報の伝達効率は副次的なのだと言っている。
立ち止まり、広告を眺めてくれと言っている。
製品を全面に出すのは、イケテナイと言っている。


ちょっとした本棚探索から、
ちょっとした広告の歴史が垣間見れた。
ワッショイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワッショイ


ラングドン教授へ捧ぐ

deamon


フト オモッタ。

フゥっと息を吸い込んで、

一息で吐き出す間に、

何人の芸術家を言えるかと。


ミケランジェロ、ラファエロ、ボッティチェリ、ミュシャ、ゴヤ、モネ・・etc..


チェ こんだけだ。


チョッチ オモッタ。

もう一度息を吸って、

また吐いて、その間にどんな絵が浮かぶかと。


青いターバンを巻く少女だったかな・・

5月14日の絵だったかな・・

睡蓮だったかな・・・・


チェ こんなもんか。。


どうも芸術家とその作品が一致しない・・・。

でも、それよりなにより、芸術の背景を知らないんだ。。


ラングドン教授に昨日教わったんだ。

芸術を理解するのに、まずは芸術が生まれた背景を知れと。

その作品ができた背景を、大きな流れを知れと。


ワタシハ 芸術の木を見て森を見なかった。いや見方を知らなかった。

芸術を観賞する眼鏡を持っていなかったんだ。


ラングドン教授は、芸術をもう少し大きく捉えろと教えてくれた。


芸術作品を観るのは、誰にでもできる。

どう感じるかも個人の自由。

理論武装とはチト違う、芸術のとらえ方をもう少し学ばねばいかん。


小説から学ぶものは大きかった。

さらに読み進めよう。


天使と悪魔

Google 辞書でツナガレ

google
Google Tool Bar Beta3



また一歩、異文化コミュニケーションが容易になる。


なるへそマウスオーバー。それがイイんだよな。

検索して、マウスをちょろっとEnglishの文字列に乗せれば、

あぁれまぁ~日本語に訳されてる~。


言語は本来、人と人のコミュニケーションを容易にする

ツールである。

つまり、つながることに進歩的な媒体である。

しかし、言語が異なれば、他者を知ることは困難になる。

言語と言語がつながれなければ、人と人はつながらない。


そこへ、辞書という言語と言語を媒体する道具ができるわけだ。

そして、言語同士がつながったその瞬間。あらたな世界が広がる。


当然、単語同士がつながるだけでは、複雑な思考はつながらない。

しかし、このつながりがなければ、奥行きのある理解には結びつかない。


ありがとうGoogleよ!

検索エンジンという、情報をただ闇雲に集めるロボットだけかと思ったら、

実は、言語同士を結んでくれる、心優しきキューピットでもあったんだね!




幾多郎か あるいは 鬼太郎

kitarou
「おい!鬼太郎」
と、目玉の親父が叫ぶ・・のは、「ゲゲゲの鬼太郎」

「唯むつかしいのみで、無内容なものならば、
讀む必要もないが、
自分の思想が及ばないでむつかしいのなら、
何處までもぶつかつて行くべきではないか。」


と、叫ぶのは、そう「西田幾多郎」
名前は似てるが、叫ぶことは大きく違う。

鬼太郎は、おばけの世界だけど、
幾多郎は、現実世界の住人だった。

京都の哲学者だった西田幾多郎さん。
『善の研究』などを書いた人。

京都の銀閣寺付近に「哲学の道」がありますが、
そこを彼がよく歩いたことから、その名前がついたそうで。

この読書についての1フレーズに出会ったのは、確か2年前くらい。
京都に一人旅してた頃だったはず。

出会った瞬間、こう思った。
「読めないものは、読めません。」


でも、彼のおかげで、難解な書物に出会うたびに
「自分の思想が及ばないで・・・」
と思い出し、思想が及ぶまで読みたいと思うようになった、カモ。

内容が無意味なのではない。
ただ、自分の思想が及ばないがゆえに
難解に思える本たち。

まだまだ「思想」などと言えるような人間ではないが、
死ぬ間際までには、思想を携えて、
鬼太郎のいるおばけの世界に足を踏み入れたいもんだ。

辛くも、彼はこうも云う。
「ただ一つの思想を知るということは、
 思想というものを知らないというに等しい」

オイラ (´ー`)チラネーヨ



小説は若葉マーク

読破までもう少し。
久々に小説を読んでおる。

本棚に占める小説の割合なんて、10%以下。
あまり手を出してこなかった。

どうも絵空事に興味がわかなかった。
ありもしないバーチャルな小説なんて・・・
と、思っていた。

でも、そんなことはないんだろうな。
存在するコトしか認めないなんて、
未来が描けないのと一緒。

小説のようなバーチャルな世界が
新たにリアルな世界を生み出すことに
なるんだろうな。

現実に存在し得ない話だって、
明日には現実になるかもしれない。
SF小説だって、未来には実現する
話なのかもしれない。

ノンフィクションだって、時事問題だって、
根拠のない、裏付けのない本なら
小説となんらかわらない。
ただ、感情を揺さぶるものの有無だけ。

どんな本だって、いいんだ!

たった、一文でも、ココロに染みれば、
読んだ甲斐があるってもんだよ。



インセンティブ設計の白地図

ふぅぅ。。堅苦しい・・。

ルールなんて嫌いなんだ。

慣行なんかに縛られたくない。

自由だ!自由だ!自由が好きなんだ!


て言ってもさ、

毎日どこかで出会ってる、ルール。

生まれながらにして、法律に従うと署名したも同然。

生きる代わりに法を守ると、いつのまにか同意した・・。らしい。


法律の外周からはみ出そうとすれば、ハイ 逮捕。

破っちゃ嫌よと言われれば、

ついつい破りたくなっちゃうんだな。

これぞまさに、人間のSAGA。


一心不乱にダメだダメだと叫び続けるルールなんて必要ない。

そこにインセンティブが設計されていなけりゃ意味がないんだ。


「人を殺すな」

これだけじゃ、支配-被支配の関係の中でしか成立しないルールじゃない?

「人を殺さないほうが、あなたのためよ」

これぞまさに、ルールの基本だと思うぜ。


人を殺すこと、そこには正当か不正当かは別にして、何かしら理由がある。

しかし、人を殺した瞬間、

社会から完全に隔離されるだろう。


さぁ、天秤に掛けるがよい。


人を殺し、刹那の快楽を享受し、社会生活を離脱するか。

社会の営みを享受し、人を殺す快楽を抑制するか。


ルールがあろうとなかろうと、依然選択の余地はある。

んだから、ルールを策定するなら、インセンティブを設計しなければならない。


人を殺さないでいること、ルールを守ることが、各人にとって好ましい

選択であるという、インセンティブを付与せねばならぬ。


これがルール策定の必要条件である、と思う。


時代にそぐわないルールや

支配者からの圧力的なルールは

ルールの意味を持たない。


ルールは縛るものではない。


一歩踏み外せば、そこには地獄があり、

踏みとどまり、内側にいることが

いかに天国であるか。

それを明確に指し示すものが、ルールだろう。


選択し続ける生き物である人間を

インセンティブというツールを用いて

コントロールするのがルールだっぺ。